マハリシ札幌センターblog

マハリシ総合教育研究所 札幌センター会報誌の記事などご紹介

tm-critic.com

日本の研究者によるTM瞑想の評価がまとめられていました。

 

「最近は、心身療法の一つとして瞑想が注目を集めています。ただ、瞑想に興味はあっても、それが宗教と関係しているかどうか、安全なものであるかどうかは気になるところです。そこで、このサイトでは、マインドフルネス瞑想と並んで欧米で広く普及している超越瞑想(TM)が、信頼できる瞑想法なのか、危険な面はないかという点を評価していきます。」

瞑想中の脳波

瞑想中の脳


脳科学という言葉が流行っているようですが、瞑想についての研究もたくさん行われています。

一口に「瞑想」と言っても、実のところ瞑想の種類は様々です。

当然ですが瞑想方法が違えば、その短期的・長期的な効果も違うものですから、なかなかひとくくりにできないものです。


 著名な脳科学研究者トラヴィス博士は、現在マハリシ経営大学(MUM)脳・意識・認知センター所長で、超越瞑想が脳機能に及ぼす影響の調査を専門としています。

博士によると、TM瞑想者は何か特定の部分だけを発達させるというのではない状態であるとの研究を発表しました。

 

他の種類の瞑想法では脳の特定の領域の変化が見られますが、TM中に脳波を計ってみると、脳の様々な部分で同調が出現してきます。

TM中に脳全体にわたってアルファ波が同調しているというのは、なかなか一般では見られない珍しい現象だということです。

さらにTMの上級コースであるTMシディプログラム中には、脳波が最大限に同調するという現象が見られます。

超越しているとき、脳のさまざまな領域が協調し、一つの全体となって働くというものです。

その結果として変性意識状態あるいは、純粋意識と呼ばれる意識状態がもたらされるとのこと。

ここで興味深いのは、脳波が最高度に同調した時というのは、意識が最も単純な状態だということです。

純粋意識とは、思考のプロセスやその他の心的プロセスがなくなって、「内なる自己」を認識している体験です。

第四の意識状態であり、覚醒時の意識状態とは質的に異なっています。

 

超越瞑想を規則的に行っていると、超越意識の体験が、次第に継続するようになります。

日常、活発に考えたり行動しているときにも、超越意識が維持される状態が養われます。

 

また、TMシディのフライングテクニック中には、幸福感が高まると同時に深い静寂の意識状態が定着してゆきます。


 マハリシは、人間の脳は、生き物の中でも最も高度に発達しており、本来誰しも超越的な意識を生きることができると言っています。際限がないほどに。

 

より高い意識の人は、脳が最高度に機能している状態になっていると言われています。

また特徴として、超越意識、純粋な意識の状態では、最小作用の法則で機能すると言われています。

ラヴィス博士によると

超越瞑想の実践中には、皆さんは脳機能全体を活性化させています。

その結果、瞑想から出てきたとき、人はより忍耐強くなり、順応性が高まり、ストレスに悩まされることが少なくなります。」

日々の瞑想は、そのような状態を養う訓練につながっていると言えます。

瞑想によってシンプルな状態にリセットして、何事にも気持ちも新たに取り組みましょう。

意識の成長 2015Dec

人は「永遠の存在(Being)の絶対的な力、知性、至福、創造性」を享受することができるとマハリシは語っています。(著書:超越瞑想ー生きる技術より) この生きる技術は、充ち満ちた生命の壮大さをもたらし、人生をより豊かにします。

絶対なるものの力が主観性のあらゆる面を補うとき、自我は円満になり、理知は深く鋭く、心は集中し強くなり、想念の力も強く、五感は完全に目覚めます。

日々啓発へと歩みを進めつつ、毎日を楽しみたいものです。

 

            宇宙意識の発達の兆し

 1.心理的重圧がかかる状況においても、内なる安定性がある。

 2.眠りと夢の記憶がある。目覚めるときに、連続性の感覚がある。

 3.目覚めの状態と眠りの状態のあいだの接点に対する気づきがある
  (何か制約限定なきもの)。

 4.ダイナミックな活動や競争に従事していながらも、その最中は
   結果についてはあまり考えない。

 5.絶えず内なる安心感がある。

 6.過去のことを後悔しない。

 7.未来のことを心配しない。

 8.自動的な記憶。
   必要な時にだけ思い出す。必要でない時には思い出せないかもしれない。

意見が対立したら 2016May

人間はそれぞれ考え方が違うもの。

意見が合わないことはよくあることです。

身近な人だと無遠慮になって、諍いになることがあるかもしれません。

 

そんな時、マハリシは、
意見の相違が生じたならば、四時間待って、それからその相違を取り上げなさい。by マハリシ
 と言われました。

これはマハリシが夫婦について語った時の言葉です。

ひとたび言い争いになると、なかなか冷静な話し合いはできません。

双方が自分の意見の正しさを主張しだすと、もう健全な議論ができなくなります。

口論は不毛ですから、一度時間を置いて、再び話し合いをするのは賢明な対処の仕方でしょう。

そして意見の相違を放置しないというのも注目点です。

対立を解消すべくマハリシは話し合うことを勧めているのです。

面倒がって、意見の対立をそのまま放置しておけば、対立はずっと続くことになります。

放っておけば一時的に忘れることはできるかもしれませんが、問題を蒸し返されれば、また言い争いになるかもしれません。

つまり、表面的に何事もないようでも、内的な争いが静かに続いていたわけです。


 「意見」とは或る物事についての自分なりの信念や判断のことですが、意見は、事実に基づいているとはかぎりません。

常に誤りの余地があります。

ですから、「意見」を持っている人は、異なる意見の持ち主と対立するのは避けられません。

自分は正しいと信じているので、相手は間違っていると考えます。

なかなか自分の意見が受け入れないと、不満や怒りを感じたり、悲しく思ったりします。

強引な人ならば、押し切って自分の思いどおりに事を運ぼうとするでしょうし、控え目な人ならば、自分が我慢すれば済む問題だと考え、不本意ながらも相手の意見を飲んで、言い争いを丸くおさめようとします。

ですがいずれの場合も、表面的な対立を終わらせることはできますが、心の内にある対立を終わらせることはできません。

もちろん穏便に言い争いを回避することにもそれなりの意味があります。

しかしそれよりもっと重要なのは、言い争いの原因を断つことです。たとえ、自分の意見を口にせず、相手の意見に合わせたとしても、内心では異なる意見を持っているかぎり、意見の対立は終わりません。言い争いを避けるために、自分の意見を主張するのを控えたとしても、いずれ対立が表面化します。

 

自分が我慢しさえすれば丸くおさまるという発想は、自分にとっても相手にとっても有害です。やっかいなことに、我慢したり、相手に合わせるのを習慣にしている人は、相手の話を真面目には聞かなくなります。

話し合うのは時間の無駄だと考えて、自分の意見を心の奥底に隠し続けるのです。それは、自分の意見を押し通そうとして声高に自説を主張するのと同じく、自分の意見は絶対に捨てるつもりはないという頑な態度です。

口に出す出さないかは問題ではありません。意見に固執するかしないかが問題なのです。 


 往々にして、人は自分の意見の正しさを信じて疑いません。

自分の判断は間違っているかもしれない、とは考えません。ひとたび結論を得て、意見が形成されると、探究心は捨てられ、精神は柔軟性を失います。

柔軟性を失い固くなった精神は、異論を受けつけなくなります。

結論を持っていなければ、相手の言葉に耳を傾け、相手の言ったことが真実である

のかどうかなど深く考えることができます。

 

しかし、すでに自分の意見を持っていれば、耳を傾けるのが難しくなります。

 

相手が怒りにまかせて自分を非難している場合は、なおさら言い方がひどいと反発を感じてしまうので、耳に逆らうでしょう。

 

ですが、言われていること自体が正しいかどうか耳を傾けるには忍耐は必要です。

相手の言葉を常に中立的に聞くためにも、常に内側に静けさを確立するべきです。

 

 さて、マハリシは理想的な人間関係のあり方を次のように教示しています。


 夫婦の関係が存在するのは、相手があるからであって、自分があるからではありません。
 一方は他方のために生きているのです。


 夫婦に限らず相手のために生きるというのは、今の時代希有なことになっているかもしれません。

無知の暗闇のなかで生きる「私」たちはみな利己的です。

無知な人間にとっては、私心を捨てて誰かのために生きる、社会のために生きる、というのは理想的な観念です。

どんな人間関係であれ、その関係が相手のためにあるのではなく「私」のためにあるのなら、相手が自分の思い通りに動くことを期待し、不満を募らせます。


 マハリシは著書の中で瞑想は「人々を色々な点でいっそう幸せにし善くするばかりでなく、生命の核心に触れて、人生をより高い進化レベルに向上させる」と述べています。

「温かい心で会いなさい。与えるために会いなさい。」「人間関係の目的は、相互の利益のために、与えたり受けたりするのだが、どちらかといえば与えるために会うべきです」「自分は人に何が与えられるかを考えなさい。

相手への励まし、同情、敬愛、称賛、助言よい知らせなど与えられるものは何でもいいのです」
 身近な人々との関係は、様々なことを得る貴重な機会です。もし真の意味で不和を完全に解消することができたなら、今後もう決して不和に悩まされることはないでしょう。

共に生きる二人が、利己的に生きるのを手放し、真実を会得することができれば、争いは完全に終わり、問題は雲散霧消します。私たちは日々の瞑想によって、日々心を、清らかに、安らかに保ち、相手によりよいものを与える土台を作り続けます。

この地上が楽園になるまで。

 

ゆーとぴあ北海道  2016May

 

マハリシ著「聖なる意識の目覚め」 瞑想中に経験するものとは?

「私たちが瞑想中に経験するものは何でしようか?


 それは、この宇宙すべてを司っている自然の法則の内側の仕組みです。


 みなさんは、創造の仕組みの中へ次第に入っていきます。


 池に何度も飛び込んでいるうちに、水の深みに慣れてゆきます。

すると、水面で泳ぐのはいともたやすいことになります。


 瞑想はそれと同じです。

被造界には、あらゆるものを維持し、進化させている自然の様々な法則が働いていますが、その精妙な作用原理に慣れてくると、いつしか生命の粗大な領域での行動は、いとも容易いものになります。

あまりに簡単なので、ひとりでに進んで行きます。


 私たちが今ここに集っているのは、人生についての偉大な叡智を得るためです。

人生のあらゆる面が暗闇に取り残されることなく、すべてが啓発の光に満ちているようにしたいのです。


 創造の過程では、心はだんだんと粗大になってゆきます。

瞑想中には、それとは逆に、だんだんと精妙にしています。

何をか?というと、意識の振動している状態を精妙にしているのです。

振動している意識が次第に振動しなくなってゆき、いつしか全く振動しなくなって、純粋な意識となります。

この純粋な意識の状態が、あの遍在する「存在(Being)」です。

それはちょうど、波立っていた海が静になるようなものです。一つの波もなくなり、永遠に拡大した静かな海となります。


 被造界の振動している状態が次第に減少してきます。

別な言い方をするなら、私たちがそれに近づくと言えるでしょう。

私たちが被造界の振動のより精妙な状態へと進み、そしてついにはまったく振動のない状態へと達するのです。

波の振動する性質がだんだんとなくなってゆくとは、波はますます海の中にとけ込んでゆきます。

最終的には、全く振動がなくなってしまうのです。

すると波は、個別の波ではなくなり、海の地位を得るのです。」


                                                  (マハリシ著「聖なる意識の目覚め」より)

束縛から自由になること 2016June

 「束縛からの自由」 


 一日中考えごとばかりしている、悩み事がある、何か気がかりがあるなど、

想念に頭を悩ますことが続くと何となく消耗しませんか?

 

マハリシは、心のエネルギー消費を最小限にとどめながら、強い想念を生み出すことを「超越瞑想-考える技術(art)」の中で紹介しています。

 

想念が相対界での心の活動を開始する時、束縛や執着から自由な状態を保つことができている状態です。

考えに秩序と知性があり、単に力強いだけでなく、その考えは正しく適切です。

それを「直感」という人もいるし「インスピレーション」「ひらめき」など様々な言葉で表現されるかもしれません。


 さて、考えに囚われたり、執着・こだわりなどは、考える技術が失われている時に陥ります。

心に浮かぶ無益な想念などは、瞑想中の想念と同様に、ややもすると過去の体験やストレスに基づいているものです。

いつの間にかこのように心が過ぎ去ったことに縛られているのです。

束縛的影響の原因が生じるのはどうした訳でしょうか。

 

対象が五感を通して心と結びつけられた時に経験が生じます。

すると、心にその印象が残り、心の本質に影が落ちます。存在(Being)が対象と同一化することで人は経験をするのですが、心に深く印象として刻まれたものがストレスとして蓄積ると、それらが「また経験をしたい」という将来の願望の種子となります。

思考が基になって行動を起こし、それが心に印象を残し、将来の願望になります。

いつまでも延々とこんなサイクルが続きます。

当然のことながら 間違った想念や、堕落的な、役に立たない考えは自分の足を引っ張るものです。

でも、考えるのを止めようと格闘しても徒労に終わる・・・と既に経験済みではないでしょうか。

 

やはり原因にアプローチしなければ何もかわりません。

心が想念を経験している時にも自由を保ち、高次意識という永遠の自由へと至ることがなければ、延々とその経験の印象に引きずられて願望の種子は発芽し、尽きることのない想念に振り回されてゆくことでしょう。

 

しかしもし印象が刻み込まれることがなくなり、ストレスが取り除かれてゆくとどうでしょうか。

純粋性が高まり、徐々に進化を助ける有徳な想念が心を満たすようになります。

ストレスなどの束縛的な影響から自由になる基礎が日々の瞑想によって養われます。心の浄化は、本人に恩恵をもたらすだけでなく、周囲にも調和の波を広げることでしょう。


 ヴェーダ文献が説いているのは、「すべてのことを成し遂げるために“ひとつ”のことを行うというものです。

インドにはこんな格言があります。

「充満性(Fullness)を扱い、完全性を扱い、あなた自身を扱いなさい。」

そこからすべてが扱われます。ウパニシャッドは知識の栄光を次のように歌い上げています。

「総合的知識に開かれない限り限界から逃れることはできない」

人生において限界の中に甘んじる必要はまったくありません。皆さんは限界のない永遠なる存在、ブラフムなのです。」 by マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー

 

さて、瞑想するとしましょうか