意見が対立したら 2016May
人間はそれぞれ考え方が違うもの。
意見が合わないことはよくあることです。
身近な人だと無遠慮になって、諍いになることがあるかもしれません。
そんな時、マハリシは、
意見の相違が生じたならば、四時間待って、それからその相違を取り上げなさい。by マハリシ
と言われました。
これはマハリシが夫婦について語った時の言葉です。
ひとたび言い争いになると、なかなか冷静な話し合いはできません。
双方が自分の意見の正しさを主張しだすと、もう健全な議論ができなくなります。
口論は不毛ですから、一度時間を置いて、再び話し合いをするのは賢明な対処の仕方でしょう。
そして意見の相違を放置しないというのも注目点です。
対立を解消すべくマハリシは話し合うことを勧めているのです。
面倒がって、意見の対立をそのまま放置しておけば、対立はずっと続くことになります。
放っておけば一時的に忘れることはできるかもしれませんが、問題を蒸し返されれば、また言い争いになるかもしれません。
つまり、表面的に何事もないようでも、内的な争いが静かに続いていたわけです。
「意見」とは或る物事についての自分なりの信念や判断のことですが、意見は、事実に基づいているとはかぎりません。
常に誤りの余地があります。
ですから、「意見」を持っている人は、異なる意見の持ち主と対立するのは避けられません。
自分は正しいと信じているので、相手は間違っていると考えます。
なかなか自分の意見が受け入れないと、不満や怒りを感じたり、悲しく思ったりします。
強引な人ならば、押し切って自分の思いどおりに事を運ぼうとするでしょうし、控え目な人ならば、自分が我慢すれば済む問題だと考え、不本意ながらも相手の意見を飲んで、言い争いを丸くおさめようとします。
ですがいずれの場合も、表面的な対立を終わらせることはできますが、心の内にある対立を終わらせることはできません。
もちろん穏便に言い争いを回避することにもそれなりの意味があります。
しかしそれよりもっと重要なのは、言い争いの原因を断つことです。たとえ、自分の意見を口にせず、相手の意見に合わせたとしても、内心では異なる意見を持っているかぎり、意見の対立は終わりません。言い争いを避けるために、自分の意見を主張するのを控えたとしても、いずれ対立が表面化します。
自分が我慢しさえすれば丸くおさまるという発想は、自分にとっても相手にとっても有害です。やっかいなことに、我慢したり、相手に合わせるのを習慣にしている人は、相手の話を真面目には聞かなくなります。
話し合うのは時間の無駄だと考えて、自分の意見を心の奥底に隠し続けるのです。それは、自分の意見を押し通そうとして声高に自説を主張するのと同じく、自分の意見は絶対に捨てるつもりはないという頑な態度です。
口に出す出さないかは問題ではありません。意見に固執するかしないかが問題なのです。
往々にして、人は自分の意見の正しさを信じて疑いません。
自分の判断は間違っているかもしれない、とは考えません。ひとたび結論を得て、意見が形成されると、探究心は捨てられ、精神は柔軟性を失います。
柔軟性を失い固くなった精神は、異論を受けつけなくなります。
結論を持っていなければ、相手の言葉に耳を傾け、相手の言ったことが真実である
のかどうかなど深く考えることができます。
しかし、すでに自分の意見を持っていれば、耳を傾けるのが難しくなります。
相手が怒りにまかせて自分を非難している場合は、なおさら言い方がひどいと反発を感じてしまうので、耳に逆らうでしょう。
ですが、言われていること自体が正しいかどうか耳を傾けるには忍耐は必要です。
相手の言葉を常に中立的に聞くためにも、常に内側に静けさを確立するべきです。
さて、マハリシは理想的な人間関係のあり方を次のように教示しています。
夫婦の関係が存在するのは、相手があるからであって、自分があるからではありません。
一方は他方のために生きているのです。
夫婦に限らず相手のために生きるというのは、今の時代希有なことになっているかもしれません。
無知の暗闇のなかで生きる「私」たちはみな利己的です。
無知な人間にとっては、私心を捨てて誰かのために生きる、社会のために生きる、というのは理想的な観念です。
どんな人間関係であれ、その関係が相手のためにあるのではなく「私」のためにあるのなら、相手が自分の思い通りに動くことを期待し、不満を募らせます。
マハリシは著書の中で瞑想は「人々を色々な点でいっそう幸せにし善くするばかりでなく、生命の核心に触れて、人生をより高い進化レベルに向上させる」と述べています。
「温かい心で会いなさい。与えるために会いなさい。」「人間関係の目的は、相互の利益のために、与えたり受けたりするのだが、どちらかといえば与えるために会うべきです」「自分は人に何が与えられるかを考えなさい。
相手への励まし、同情、敬愛、称賛、助言よい知らせなど与えられるものは何でもいいのです」
身近な人々との関係は、様々なことを得る貴重な機会です。もし真の意味で不和を完全に解消することができたなら、今後もう決して不和に悩まされることはないでしょう。
共に生きる二人が、利己的に生きるのを手放し、真実を会得することができれば、争いは完全に終わり、問題は雲散霧消します。私たちは日々の瞑想によって、日々心を、清らかに、安らかに保ち、相手によりよいものを与える土台を作り続けます。
この地上が楽園になるまで。
ゆーとぴあ北海道 2016May